織田・豊臣・徳川・石田・黒田 6武将比較詳細年表
| 年 | 1560 | 1561 | 1562 | 1566 | 1567 | 1570 | 1571 | 1573 | 1575 | 1577 | 1582 | 1583 | 1584 | 1585 | 1586 | 1587 | 1589 | 1590 | 1591 | 1592 | 1594 | 1595 | 1596 | 1598 | 1600 | 1615 |
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| 時代背景・重要事件 | 今川義元が敗死 | 豊臣兄弟の始動 | 織田・徳川同盟成立 | 家康、三河支配を固める | 信長、岐阜入城 | 浅井長政の離反 | 三成、秀吉に仕官 | 戦国時代の転換期 | 鉄砲隊の活躍 | 秀長、独立軍を率いる | 山崎の戦い・本能寺の変 | 柴田勝家を撃破 | 秀吉vs家康の直接対決 | 秀長、副将格で大和入封 | 秀長、旭姫の縁組み調整 | 秀長、大納言へ | 官兵衛、隠居(如水)へ | 北条氏滅亡 | 豊臣秀長の死去 | 朝鮮出兵開始 | 伏見城を政務拠点化 | 豊臣家親族の弱体化 | 慶長伏見地震(再築強行) | 秀吉、後事を託す | 関ヶ原の戦い | 豊臣家滅亡 |
| 主な舞台(現在) | 愛知県名古屋市(中村) | 愛知県清須市 | 岐阜県大垣市/愛知県 | 岐阜県岐阜市 | 福井県敦賀市〜滋賀県 | 滋賀県長浜市 | 滋賀県長浜市/静岡県 | 愛知県新城市 | 兵庫県姫路市・朝来市 | 京都府京都市・大山崎町 | 滋賀県長浜市 | 愛知県小牧市・長久手市 | 奈良県大和郡山市 | 京都府京都市(聚楽第) | 福岡県ほか九州全域 | 京都(聚楽第)・大坂 | 神奈川県小田原市 | 奈良県大和郡山市 | 佐賀県唐津市 | 京都府京都市(伏見) | 京都府京都市(瑞泉寺等) | 京都府京都市(伏見) | 京都府京都市(伏見城) | 岐阜県関ケ原町 | 大阪府大阪市 | |
| 豊臣秀吉 | 織田家に仕官中(24) | ねねと結婚 | 織田軍に従軍 | 墨俣一夜城(伝承) | 岐阜入城に従軍 | 金ヶ崎の退き口 | 長浜領有への足がかり | 浅井氏滅亡/長浜城主 | 長篠の戦い | 中国征伐開始 | 中国大返し(46) | 賤ヶ岳の戦い | 小牧・長久手の戦い | 関白就任 | 太政大臣就任 | 九州平定 | 鶴松誕生 | 天下統一 | 関白を秀次に譲り太閤へ | 文禄の役 | 伏見城(指月)入城 | 秀次事件 | 伏見城(木幡山)再築 | 秀吉、没 | – | – |
| 豊臣秀長 | 仕官(諸説あり) | 兄を支える | 実務面を補佐 | 兄と共に岐阜へ | 殿軍で奮闘 | 内政・軍事を補佐 | 長浜の経営を担当 | 羽柴軍の補佐 | 但馬平定総大将 | 山崎の戦い先鋒(43) | 前線を維持 | 家康軍を牽制 | 巨大領国を形成 | 家康の接待・交渉 | 九州平定軍の総大将 | 隠居生活を視野に | 最後の参陣 | 1月:大和郡山で没(52) | – | – | – | – | – | – | – | |
| 織田信長 | 桶狭間の戦い(27) | 斎藤氏と対立 | 清洲同盟 | 斎藤氏攻略中 | 「天下布武」を掲げる | 姉川の戦い | 比叡山焼き討ち | 室町幕府を滅ぼす | 長篠の戦い | 安土城築城 | 本能寺で自害(49) | – | – | – | – | – | – | – | – | – | – | – | – | – | – | – |
| 徳川家康 | 今川から独立(18) | 今川から独立 | 清洲同盟 | 「徳川」へ改姓 | 遠江進出を狙う | 姉川の戦い | 武田と対峙 | 三方ヶ原の戦い | 長篠の戦い | 遠江平定を推進 | 神君伊賀越え(40) | 駿河・甲斐領有 | 小牧・長久手で善戦 | 臣従を拒み続ける | 上洛・秀吉に臣従 | 九州平定に従軍 | 小田原攻めの準備 | 関東(江戸)へ移封 | 秀長没後の調停役へ | 名護屋城在陣 | 伏見城築城に関与 | 事件後の事後処理 | 上方政局の中枢へ | 五大老筆頭として台頭 | 関ヶ原の戦い勝利(58) | 大坂夏の陣 |
| 石田三成 | (11歳) | 秀吉に近習として仕える | 側近として実務を学ぶ | 行政・補給に携わる | 行政能力を発揮し始める | 兵站・補佐で奔走(23) | 賤ヶ岳で戦功を挙げる | 兵站・行政の中核を担う | 四国平定の検地等担当 | 堺奉行等に抜擢 | 博多復興(太閤町割) | 側近としての地位を確立 | 忍城攻めを指揮 | 佐和山入城/鶴松病没 | 朝鮮へ渡海(軍監) | 実務の最高幹部(五奉行) | 正式に佐和山城主 | 復興・再築の実務を担う | 家康との緊張が増す | 関ヶ原で敗北・処刑(41) | – | |||||
| 黒田官兵衛 | (21歳) | 父を助け姫路城へ | 織田氏への臣従を画策 | 播磨の情勢を注視 | 小寺家家老として活躍 | 織田への臣従を主導 | 秀吉と接触/姫路拠点化 | 「ご運が開けました」(37) | 賤ヶ岳の戦勝に貢献 | 留守居・後方支援 | 四国平定の軍師 | 九州平定の事前調整 | 九州平定の策を献ずる | 家督譲渡・如水と号す | 小田原城開城交渉 | 如水として秀吉を補佐 | 朝鮮出兵の陣立作成 | 隠居ながら影響力を保持 | 如水、秀吉を諫める | 如水、九州へ下向 | 九州で独自に動く | 九州にて独自の挙兵(55) | (1604年に死去) |
豊臣政権「最強チーム」の相関図:兄弟の絆と知略の競演
「この相関図は、織田・豊臣・徳川・石田・黒田という戦国大河ドラマの主役たちが、どのような絆と対立の中にいたのかを可視化したものです。
特に注目すべきは、中央に位置する『豊臣兄弟(秀吉・秀長)』の揺るぎない関係です。
彼らを中心に、軍師・官兵衛や奉行・三成がどのように政権を支え、宿敵・家康がどこで牙を研いでいたのか。
この図解と年表を照らし合わせることで、歴史の転換点がより鮮明に見えてくるはずです。

豊臣政権・6武将比較詳細年表:各年代の徹底解説
この年表は、織田・豊臣・徳川・石田・黒田という、戦国から江戸への転換期を彩った6人の歩みを可視化したものです。各年に秘められたドラマを詳しく紐解きます。
1560年:運命の原点「桶狭間の戦い」
歴史が大きく動いた瞬間です。27歳の織田信長が今川義元を破り、天下への名乗りを上げました。
この時、徳川家康(18歳)は今川の支配を脱して独立。
豊臣秀吉(24歳)は信長の足軽として歩み始めたばかりであり、すべての「三英傑」の物語がここから始まりました。
1561年〜1567年:豊臣兄弟の始動と岐阜入城
- 1561年: 秀吉がねねと結婚。私生活を整え、武士としての地歩を固めます。
- 1566年: 墨俣一夜城の伝承が残る時期です。秀吉が手柄を立てる裏で、弟・豊臣秀長が実務を支え、家康は「徳川」へ改姓し三河支配を確立しました。
- 1567年: 信長が「岐阜」と改名して入城。秀吉・秀長兄弟も岐阜へ移り、信長は「天下布武」を掲げて本格的に上洛を目指します。
1570年〜1573年:死地を越えた絆と「長浜」の始まり
- 1570年(金ヶ崎の退き口): 浅井長政の裏切りにより信長が絶体絶命に。秀吉と秀長は共に「殿(しんがり)」を務めて死地を脱しました。
- 1571年: 11歳の石田三成が秀吉に見出され、近習として仕え始めます。
- 1573年: 浅井氏滅亡後、秀吉は長浜城主となります。秀長が内政を、三成が実務を学び、黒田官兵衛も播磨で織田方への臣従を画策するなど、豊臣政権のコアメンバーが集結し始めました。
1575年〜1577年:長篠の戦いと中国征伐の開始
- 1575年(長篠の戦い): 信長・家康連合軍が武田の騎馬隊を撃破。秀吉軍の補佐として秀長も参戦し、三成は兵站の重要性を学びました。
- 1577年: 秀吉が中国征伐を開始。秀長は但馬平定の総大将を任され、官兵衛は姫路を拠点に秀吉の軍師として本格的に活動を開始します。
1582年:激動の「本能寺の変」
最大の転換点です。
信長が本能寺で倒れた際、官兵衛(37歳)は秀吉に「ご運が開けました」と囁き、天下取りを促しました。
秀長が山崎の戦いで先鋒を務め、三成が兵站を支えたことで、奇跡の「中国大返し」が成し遂げられました。
1583年〜1584年:豊臣政権の確立と家康との直接対決
- 1583年(賤ヶ岳の戦い): 柴田勝家を破り、秀吉が信長の後継者としての地位を決定づけます。
- 1584年(小牧・長久手の戦い): 秀吉と家康が激突。秀長は家康軍を牽制する重要任務をこなし、三成は軍の補給を完璧に統制しました。
1585年〜1587年:豊臣政権の絶頂期
- 1585年: 秀吉が関白に就任。秀長は「大和100万石」を領し、政権の副将格(調整役)として君臨します。
- 1587年(九州平定): 秀長が総大将、官兵衛が軍師、三成が行政を担う。この時期こそ、豊臣チームが最も一丸となって力を発揮していた全盛期でした。
1589年〜1590年:天下統一の完成
- 1589年: 官兵衛が家督を譲り「如水」と号します。
- 1590年(小田原攻め): 北条氏が滅亡し、秀吉の天下統一が完成。家康は江戸へ移封され、秀長は病を押して最後の参陣を果たしました。
1591年:豊臣の「良心」秀長の死
1月、秀長が大和郡山で没します。
家康ら諸大名とのパイプ役であり、政権のブレーキ役だった彼の死により、豊臣政権はバランスを失い、強硬な政策へと傾斜し始めます。
1592年〜1598年:朝鮮出兵と内部の亀裂
- 1592年(朝鮮出兵): 秀長不在のまま大事業が強行され、最前線の三成と、官兵衛ら武将たちの間に深い溝が生まれます。
- 1595年(秀次事件): 豊臣家親族が弱体化。三成が佐和山城主として台頭しますが、家臣団の対立は修復不能となりました。
- 1598年: 秀吉が伏見城で没。家康が台頭し、天下の形勢は再び流動化します。
1600年:天下分け目の「関ヶ原」
かつての豊臣チームが、家康側と三成側に分かれて激突。
官兵衛も九州で独自の挙兵を見せました。
三成の敗北により、豊臣の時代は事実上の終焉を迎えます。
1615年:豊臣家滅亡
大坂夏の陣により、大坂城落城。
秀吉の死から17年、かつての黄金期を支えた人々が去った後、豊臣家は歴史の舞台から完全に退場しました。
おわりに:豊臣の「if」を考える
この年表を俯瞰すると、1591年の豊臣秀長の死を境に、政権の歯車が狂い始めたことが一目でわかります。
もし、秀長が1600年の関ヶ原まで存命していたら?
- 三成と官兵衛の対立は防げたのか?
- 家康はどう動いたのか?
そんな「歴史のif」に思いを馳せながら、この年表を眺めていただければ幸いです。


