【完全保存版】豊臣政権6武将の比較詳細年表と相関図|豊臣兄弟の絆

織田・豊臣・徳川・石田・黒田 6武将比較詳細年表

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時代背景・重要事件今川義元が敗死豊臣兄弟の始動織田・徳川同盟成立家康、三河支配を固める信長、岐阜入城浅井長政の離反三成、秀吉に仕官戦国時代の転換期鉄砲隊の活躍秀長、独立軍を率いる山崎の戦い・本能寺の変柴田勝家を撃破秀吉vs家康の直接対決秀長、副将格で大和入封秀長、旭姫の縁組み調整秀長、大納言へ官兵衛、隠居(如水)へ北条氏滅亡豊臣秀長の死去朝鮮出兵開始伏見城を政務拠点化豊臣家親族の弱体化慶長伏見地震(再築強行)秀吉、後事を託す関ヶ原の戦い豊臣家滅亡
主な舞台(現在)愛知県名古屋市(中村)愛知県清須市岐阜県大垣市/愛知県岐阜県岐阜市福井県敦賀市〜滋賀県滋賀県長浜市滋賀県長浜市/静岡県愛知県新城市兵庫県姫路市・朝来市京都府京都市・大山崎町滋賀県長浜市愛知県小牧市・長久手市奈良県大和郡山市京都府京都市(聚楽第)福岡県ほか九州全域京都(聚楽第)・大坂神奈川県小田原市奈良県大和郡山市佐賀県唐津市京都府京都市(伏見)京都府京都市(瑞泉寺等)京都府京都市(伏見)京都府京都市(伏見城)岐阜県関ケ原町大阪府大阪市
豊臣秀吉織田家に仕官中(24)ねねと結婚織田軍に従軍墨俣一夜城(伝承)岐阜入城に従軍金ヶ崎の退き口長浜領有への足がかり浅井氏滅亡/長浜城主長篠の戦い中国征伐開始中国大返し(46)賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦い関白就任太政大臣就任九州平定鶴松誕生天下統一関白を秀次に譲り太閤へ文禄の役伏見城(指月)入城秀次事件伏見城(木幡山)再築秀吉、没
豊臣秀長仕官(諸説あり)兄を支える実務面を補佐兄と共に岐阜へ殿軍で奮闘内政・軍事を補佐長浜の経営を担当羽柴軍の補佐但馬平定総大将山崎の戦い先鋒(43)前線を維持家康軍を牽制巨大領国を形成家康の接待・交渉九州平定軍の総大将隠居生活を視野に最後の参陣1月:大和郡山で没(52)
織田信長桶狭間の戦い(27)斎藤氏と対立清洲同盟斎藤氏攻略中「天下布武」を掲げる姉川の戦い比叡山焼き討ち室町幕府を滅ぼす長篠の戦い安土城築城本能寺で自害(49)
徳川家康今川から独立(18)今川から独立清洲同盟「徳川」へ改姓遠江進出を狙う姉川の戦い武田と対峙三方ヶ原の戦い長篠の戦い遠江平定を推進神君伊賀越え(40)駿河・甲斐領有小牧・長久手で善戦臣従を拒み続ける上洛・秀吉に臣従九州平定に従軍小田原攻めの準備関東(江戸)へ移封秀長没後の調停役へ名護屋城在陣伏見城築城に関与事件後の事後処理上方政局の中枢へ五大老筆頭として台頭関ヶ原の戦い勝利(58)大坂夏の陣
石田三成(11歳)秀吉に近習として仕える側近として実務を学ぶ行政・補給に携わる行政能力を発揮し始める兵站・補佐で奔走(23)賤ヶ岳で戦功を挙げる兵站・行政の中核を担う四国平定の検地等担当堺奉行等に抜擢博多復興(太閤町割)側近としての地位を確立忍城攻めを指揮佐和山入城/鶴松病没朝鮮へ渡海(軍監)実務の最高幹部(五奉行)正式に佐和山城主復興・再築の実務を担う家康との緊張が増す関ヶ原で敗北・処刑(41)
黒田官兵衛(21歳)父を助け姫路城へ織田氏への臣従を画策播磨の情勢を注視小寺家家老として活躍織田への臣従を主導秀吉と接触/姫路拠点化「ご運が開けました」(37)賤ヶ岳の戦勝に貢献留守居・後方支援四国平定の軍師九州平定の事前調整九州平定の策を献ずる家督譲渡・如水と号す小田原城開城交渉如水として秀吉を補佐朝鮮出兵の陣立作成隠居ながら影響力を保持如水、秀吉を諫める如水、九州へ下向九州で独自に動く九州にて独自の挙兵(55)(1604年に死去)

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豊臣政権「最強チーム」の相関図:兄弟の絆と知略の競演

「この相関図は、織田・豊臣・徳川・石田・黒田という戦国大河ドラマの主役たちが、どのような絆と対立の中にいたのかを可視化したものです。
特に注目すべきは、中央に位置する『豊臣兄弟(秀吉・秀長)』の揺るぎない関係です。

彼らを中心に、軍師・官兵衛や奉行・三成がどのように政権を支え、宿敵・家康がどこで牙を研いでいたのか。
この図解と年表を照らし合わせることで、歴史の転換点がより鮮明に見えてくるはずです。

豊臣秀長(右中央)が家康(下)と秀吉(左中央)の橋渡しをしていたことがわかる相関関係図

豊臣政権・6武将比較詳細年表:各年代の徹底解説

この年表は、織田・豊臣・徳川・石田・黒田という、戦国から江戸への転換期を彩った6人の歩みを可視化したものです。各年に秘められたドラマを詳しく紐解きます。

1560年:運命の原点「桶狭間の戦い」

歴史が大きく動いた瞬間です。27歳の織田信長が今川義元を破り、天下への名乗りを上げました。
この時、徳川家康(18歳)は今川の支配を脱して独立。
豊臣秀吉(24歳)は信長の足軽として歩み始めたばかりであり、すべての「三英傑」の物語がここから始まりました。

1561年〜1567年:豊臣兄弟の始動と岐阜入城

  • 1561年: 秀吉がねねと結婚。私生活を整え、武士としての地歩を固めます。
  • 1566年: 墨俣一夜城の伝承が残る時期です。秀吉が手柄を立てる裏で、弟・豊臣秀長が実務を支え、家康は「徳川」へ改姓し三河支配を確立しました。
  • 1567年: 信長が「岐阜」と改名して入城。秀吉・秀長兄弟も岐阜へ移り、信長は「天下布武」を掲げて本格的に上洛を目指します。

1570年〜1573年:死地を越えた絆と「長浜」の始まり

  • 1570年(金ヶ崎の退き口): 浅井長政の裏切りにより信長が絶体絶命に。秀吉と秀長は共に「殿(しんがり)」を務めて死地を脱しました。
  • 1571年: 11歳の石田三成が秀吉に見出され、近習として仕え始めます。
  • 1573年: 浅井氏滅亡後、秀吉は長浜城主となります。秀長が内政を、三成が実務を学び、黒田官兵衛も播磨で織田方への臣従を画策するなど、豊臣政権のコアメンバーが集結し始めました。

1575年〜1577年:長篠の戦いと中国征伐の開始

  • 1575年(長篠の戦い): 信長・家康連合軍が武田の騎馬隊を撃破。秀吉軍の補佐として秀長も参戦し、三成は兵站の重要性を学びました。
  • 1577年: 秀吉が中国征伐を開始。秀長は但馬平定の総大将を任され、官兵衛は姫路を拠点に秀吉の軍師として本格的に活動を開始します。

1582年:激動の「本能寺の変」

最大の転換点です。
信長が本能寺で倒れた際、官兵衛(37歳)は秀吉に「ご運が開けました」と囁き、天下取りを促しました。
秀長が山崎の戦いで先鋒を務め、三成が兵站を支えたことで、奇跡の「中国大返し」が成し遂げられました。

1583年〜1584年:豊臣政権の確立と家康との直接対決

  • 1583年(賤ヶ岳の戦い): 柴田勝家を破り、秀吉が信長の後継者としての地位を決定づけます。
  • 1584年(小牧・長久手の戦い): 秀吉と家康が激突。秀長は家康軍を牽制する重要任務をこなし、三成は軍の補給を完璧に統制しました。

1585年〜1587年:豊臣政権の絶頂期

  • 1585年: 秀吉が関白に就任。秀長は「大和100万石」を領し、政権の副将格(調整役)として君臨します。
  • 1587年(九州平定): 秀長が総大将、官兵衛が軍師、三成が行政を担う。この時期こそ、豊臣チームが最も一丸となって力を発揮していた全盛期でした。

1589年〜1590年:天下統一の完成

  • 1589年: 官兵衛が家督を譲り「如水」と号します。
  • 1590年(小田原攻め): 北条氏が滅亡し、秀吉の天下統一が完成。家康は江戸へ移封され、秀長は病を押して最後の参陣を果たしました。

1591年:豊臣の「良心」秀長の死

1月、秀長が大和郡山で没します。
家康ら諸大名とのパイプ役であり、政権のブレーキ役だった彼の死により、豊臣政権はバランスを失い、強硬な政策へと傾斜し始めます。

1592年〜1598年:朝鮮出兵と内部の亀裂

  • 1592年(朝鮮出兵): 秀長不在のまま大事業が強行され、最前線の三成と、官兵衛ら武将たちの間に深い溝が生まれます。
  • 1595年(秀次事件): 豊臣家親族が弱体化。三成が佐和山城主として台頭しますが、家臣団の対立は修復不能となりました。
  • 1598年: 秀吉が伏見城で没。家康が台頭し、天下の形勢は再び流動化します。

1600年:天下分け目の「関ヶ原」

かつての豊臣チームが、家康側と三成側に分かれて激突。
官兵衛も九州で独自の挙兵を見せました。
三成の敗北により、豊臣の時代は事実上の終焉を迎えます。

1615年:豊臣家滅亡

大坂夏の陣により、大坂城落城。
秀吉の死から17年、かつての黄金期を支えた人々が去った後、豊臣家は歴史の舞台から完全に退場しました。

おわりに:豊臣の「if」を考える

この年表を俯瞰すると、1591年の豊臣秀長の死を境に、政権の歯車が狂い始めたことが一目でわかります。

もし、秀長が1600年の関ヶ原まで存命していたら?

  • 三成と官兵衛の対立は防げたのか?
  • 家康はどう動いたのか?

そんな「歴史のif」に思いを馳せながら、この年表を眺めていただければ幸いです。

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